故郷の寺社で大いに驚いたこと
ある週末、湖南省は長沙市で最も著名な寺社――開福寺を訪れた。
随分前から「開福があり、そして長沙がある」といった言われ方がなされていた。ここでの開福とは長沙城にある最も古い寺社を指しており、既に1000年以上の歴史を持つ。
長沙人として一度も訪れたことがないというのは大変失敬なことだった。開福寺を訪れなければ時代に取り残されると強く感じ今回訪問したのだったが、全く無駄だった。なぜなら、実際に訪れてみて、徹底的な疎外感を覚えたからであった。
どうしてか。それは遠くまで見渡すも、目に入るのは若者ばかり。2000年生まれ、2010年生まれ。私のような皺だらけの者はほとんどいないし、中に入っていくも、どこもかしこも仏に対する不敬を感じたからだった。
感慨深かったのは、今や人は誰もが寝そべることができるというのにこの寺社の菩薩だけは寝そべることができず必ず襟を正し端座していなければならないということだった。また、その表情が落ち着いていて穏やかな顔つきであるということだった。朝から晩まで線香がもくもくと炊かれ、次々と人々が拝みにやってきては足下にひざまずくし、さらに、その多くが息子孫世代。我が国の未来を担う彼らに対してはしっかり真心を持って接しなければならないのだ。
そのため、仏は今最も忙しいインフルエンサーで、数え切れないほどのファンがいる。お参りを終え寺社から出てきた若者達を見てみると、その顔は開眼供養をしたかのように美しく、未来への自信がいたずらにふえている。まるで突然、すばらしく新鮮で生き生きした世界が目の前にきらきらとあらわれ出たかのように。
聞くところによると、この寺社は外地の人にとってネットで有名な人気観光地なのだそうだ。そのため、お参りを終えると、彼らは寺社内でさまざまなポーズをとり写真を撮る。女の子は買ったばかりの数珠を持ちつつ、セクシーで刺激的なポーズをとる。
寺社を出た私の中で、ここに来たばかりのときに感じた驚きが好奇心に変わった。私たち世代がまだ若かったころ、世界には救世主がおらず、運命は全て自分の手のうちにあると学んだ。仏教を信じる上の世代が寺社で幸福を求め拝むのを気恥ずかしく感じていた。なぜ今になってどんでん返しが起き、信心深い若者がここまでふえたのだろうか。
彼らが運命を菩薩の加護に委ね、両親よりも敬虔で信心深くなったのはどうしてなのだろうか。